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鷹野隆大〈毎日写真〉から考える、日常写真の意味

日常写真とは、単に身のまわりのものを撮ることではない。朝の光、街角の看板、コンビニの入口、マンションの廊下、道路に引かれた白線、誰かが置き忘れた傘、使い古された椅子、食べ終えたあとの食卓。そうしたものは、あまりにも近くにあるために、私たちの目からこぼれ落ちてしまう。

しかし、日常とは決して空っぽの時間でも、意味の薄い風景でもない。むしろ日常は、無数の記号が折り重なり、身体の習慣、社会の制度、記憶の残響、欲望の配置がもっとも濃密に沈殿している場所である。貼り付けていただいた文章が述べているように、私たちは世界をそのまま見ているのではなく、街路、服装、沈黙、広告、建物の入口の雰囲気を絶えず「読んで」いる。日常生活とは、無数の記号を解釈しつづける静かな営みなのである。

この視点から見ると、鷹野隆大の〈毎日写真〉は、日常写真の意味を考えるうえできわめて重要な実践である。

鷹野隆大は、写真集『IN MY ROOM』によって木村伊兵衛写真賞を受賞し、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる写真家として広く知られるようになった。一方で、彼は1998年から毎日欠かさず写真を撮ることを自らに課し、その実践を〈毎日写真〉として続けてきた。国立国際美術館で開催された「鷹野隆大 毎日写真1999-2021」では、この〈毎日写真〉が彼の芸術活動の根幹を成すものとして位置づけられている。

ここで重要なのは、〈毎日写真〉が「日々の記録」という単純な意味にとどまらないことである。毎日撮るという行為は、日常を美しく保存するための習慣ではない。それはむしろ、自分の眼差しがどのように世界を選び、何を見落とし、何に反応し、どこで立ち止まるのかを問い続ける実験である。


一、日常は「被写体がない場所」ではなく、「見方が問われる場所」である

写真を学び始めた学生は、しばしば「何を撮ればよいのかわからない」と言う。そこには、写真には特別な被写体が必要だという思い込みがある。美しい風景、劇的な出来事、強い人物、珍しい場所。そうしたものがなければ写真にならない、と考えてしまう。

しかし、鷹野隆大の〈毎日写真〉が示しているのは、その反対である。

写真にとって重要なのは、被写体の特別さではない。むしろ、何でもないものを、どのように見るかである。

たとえば、街角の電柱、古い建物の壁、道路標識、店先の看板、雑然とした住宅地、誰かの影、空き地、ガードレール、窓、植木鉢。これらは、普通なら「作品になるもの」として見られない。けれども、それらは都市の生活を構成している現実そのものである。

鷹野の写真において、日常は整った風景として現れるのではない。そこには、どこか不格好で、雑然としていて、説明しきれないものがある。画面は必ずしも美しい秩序へと回収されない。むしろ、日常の中にある余分なもの、ずれたもの、収まりの悪いもの、見過ごされてきたものが、そのまま提示される。

この態度は、日常写真にとって非常に大切である。

日常を撮るとは、生活を「きれいにまとめる」ことではない。

日常を撮るとは、生活が本来もっている混乱、過剰、曖昧さを引き受けることである。


二、〈カスババ〉という視点

「価値の低い場所」ではなく、意味が過剰に沈殿した場所